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言語と概念

  • 2007/08/01(水) 00:00:00

 「みかん」という日本語は「ミカン科ミカン属の常緑小高木。また、その実。暖地に産し、葉は長楕円形。初夏、白色の小さな5弁花をつけ、黄橙色の実を結ぶ。果樹として広く栽培され、ウンシュウミカン・キシュウミカンなど多くの品種がある。」といったものを表している。しかしながら、ミカン科云々というのは「みかん」の概念を言語を用いて表した物であり、あたりまえであるが、それ自体は概念ではなく言語であり、説明である。「ミカン科」もある概念を表した言語であり、「の」という接続詞は前後の言語を一定の法則によって接続するという概念を表した言語である。つまり、「みかん」という口に出して一秒足らずの言語は複数の概念を組み合わせた概念をそれのみで表しているのである。みかんすげぇな。
 言語とは自己の中にある概念を他者に伝達するための一つの道具であり、会話は概念を共有する手段である。たかが一道具でしかない言語だが、言語の発明によって人類の文明が猿以上に発達することになったことを考えるととんでもなく大きな発明である。つまるところ、会話をすること、すなわち異なる二者間の概念の共有というのはそれほどまでに偉大なことなのである。

 さて、言語がどんなに素晴らしいものであれ、私という人間は概念によって思考するため、自己の思考内において概念の伝達に言語を用いるような不確実で無駄なことは滅多にしない。テーブルの端にある醤油を取るときも、「私は私の視界に写っている醤油瓶を右手で掴んで手元に寄せます。」と脳内で言語化してから行動を起こすわけではないし、「それとって。」などという曖昧な情報伝達でソースを手に取ることも・・・たまにはあるが、あまりない。
 自分ひとりしか思考できる者が存在しない世界であるならば、言語は不要で概念があれば良い。他人が存在しない世界であれば、猿となんら変らない一生を過ごして死ぬわけだが、しかし、この世界にはありがたいことに他人が存在し、概念を共有することが可能となっている。

 さて、自分以外の他人と概念を共有するために言語を利用するわけだが、必ずしも正確に概念を共有できるわけではない。むしろ、100%の共有は不可能であるとも言える。
 言語によって概念の伝達を行う時、その伝えようとする概念がより思考的に深いものである場合ほど齟齬が生じやすい。自分の思考内で自分の持つ概念を利用し思考に思考を重ねた物ほど個々のオリジナルに近づき、伝達しづらくなるものである。また、長い時間を掛けて概念の共有を行っている他人ほど伝達しやすく、赤の他人であっても環境的・先天的に関わらず、自分の概念に近い概念を持つ他人、近い思考レベルを持つ他人に対して伝わりやすいものである。
 代表的な例を挙げるとすれば、長年連れ添った夫婦の「あれ、それ」である。長年、行動を共にしていることで環境的に共通する部分が多く、会話による概念の共有も多く、尚且つ、単純な概念の伝達であるという条件であるため、「あれ、それ」で概念が伝わるという例である。


 言語によって概念が上手く共有できない場合、何らかの原因があるはずである。
自分の概念と相手の概念がかけ離れているのか。
思考レベルが違いすぎるのか。
あるいは、言語の道具としての限界か。

 言語という道具の使い方、個々の概念のありかたを今一度考えてみても良いかもしれない。

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フツー。

  • 2007/06/05(火) 12:46:20

この世界は私である。

従って全ての基準は私である。

「普通」という言葉を使うとき、「普通」の基準は私の中の「普通」である。

私の中だけの普通である。

価値観、幸福論、精神論、常識。
全てに於いて個人の差異があり、それぞれに「普通」が存在する。

こんなことは誰でも知っていること。
こんなことは誰でも知っているのが普通である。

良い人から見た良い人は普通の人であり、良い人から見た私は悪人である。
悪人から見た悪人は普通の人であり、悪人から見た私は生真面目馬鹿である。

自分は優れていると考える人から見れば私は普通以下であり、
同じ能力を持っていても劣等感を感じている人から見れば私は天才である。

「普通は・・・」「常識的に・・・」
このような言葉を使うとき、注意したいものである。

林檎

  • 2007/06/01(金) 23:59:59

テーブルの上にリンゴが3個あります。
そのうち1個を半分に切って半分を食べ、もう半分をテーブルの上に戻しました。
テーブルの上には何個のリンゴがあるでしょう。

↓僕の答えはこちら。

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スタバという罠

  • 2007/05/25(金) 11:22:13

ボンジュール皆の衆。
まあるでございます。


スタバって若いONAGOがPANを食べたりKO-HI-を飲んだりしているところじゃぁないですか。
東京23区からすれば明らかに片田舎の我が町の駅前スタバであってもその点に於いて例外ではないわけですよ。
そこにいて私という者はスタバに入りたいなって思うわけで、それ即ち自分がSo Youngであることの証明になるというものです。


それでいてスタバの前を通り過ぎてしまうのはなぜか。
スタバに入る前にスタバ店内の様子を窺うとやはり其処には若いONAGOが比較的多い割合でPANを食しておしゃべりをしているわけですよ。
シャイなワタクシとしてはその場に突撃できるわけがありません。
揺れる男心を持ってその前を二往復してしまった私を誰が責められようか。
二往復、四回のチャンスを無駄にしてしまった私が若いONAGOが集まるスタバの中をジロジロと見ながら三往復目に突入するとそこかしこから現れたポリスメンによって敢え無く御用となってしまう可能性も無くはないのです。
なんと恐ろしいスタバ。
仕方なしに「今日の朝ごはんもパンだったしな・・・」などとつぶやきながら二軒となりの松屋なる牛丼SHOPに入ることを余儀なくされるわけです。
たった数十メートルしか離れていないのに松屋という場所にはサラリーマンもしくは20代私服の男性のみしかいないのです。


かくして、若いONAGOを眺めながら食べるPANの予定であった私の夕食は男性に囲まれて食べる牛丼に変貌してしまったのです。
そりゃぁ、松屋店内にいる20代男性諸君に「おまえもか」なんて一方的な仲間意識を持ちたくもなります。


若いONAGOがたくさんいるから入りたいと思うスタバに若いONAGOがたくさんいるから入れないという矛盾を含んだ不思議空間スタバ。


詰まるところ、まあるがSo Youngなのではなくてただの助平なオッサンなのではないかという意見は総じて却下させていただきますのでご了承のほどをお願い申し上げます。

わっかるっかなぁ。

  • 2007/04/25(水) 00:25:10

わかればわかるほどわからなくなる。
知れば知るほど知らないことを知る。
考えれば考えるほど考えなくてはならない。


わかればわかるほどわからなくなることが正しいかどうかすらわからなくなる。


わっかるっかなぁ。
わっかんねぇだろうなぁ。(古っ!


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